ベイエリア通信#18 2001年1月20日

(この記事は2001年に書いて友人に送っていたメールの転載です)
(ハンカチをご用意ください)
そんなバカな・・・
 12月中旬にキャンセル待ちだった1月6日のエアカナダ成田発バンクーバー経由サンフランシスコ行の便がとれたと旅行会社の人から言われ、仮予約していたサンフランシスコ直行便のユナイテッド航空から変更した。理由はエアカナダが3万円ほど安かったからだ。そもそもこの時点で、今回の結果は出ていたのかもしれない。
  1月6日に成田空港のチケットを受け取るカウンターで、バンクーバーでアメリカの入国審査があることを初めて知った。私はてっきりサンフランシスコで入国審査があるものとばかり思っていた。「バンク-バーでアメリカの入国審査がありますので、荷物を一旦受け取ってください。」と旅行会社のお姉さんに言われた時に、何となくいやな予感がしたのだ。どうりでエアカナダはサンフランシスコ国際空港で国内便到着のターミナルを利用しているわけだ。そのことは既に知っていた。よく考えれば、カナダで入国審査をするからだという想像も働いてしかるべきだと今は思うけれども、その時はそこまで考えが及ばなかった。でも、もしバンクーバーで入国審査があることを事前に知っていたなら、私は絶対エアカナダのチケットは買わなかっただろう。いろいろ知らなくても、いやな予感がするではないか。
  ここまでの文章で、私に一体何が起こったかうすうす感じられていると思う。今回の通信は「ベイエリア通信」ならず「長岡通信」になっているのである。そう、私はバンクーバーでアメリカ入国を果たすことが出来ず、1月17日に日本に帰ってきちゃったのである。あなたの周りにこんな経験をしたことのある友人はあまりいないはず・・・。こんなことが実際自分の身に起こるとは、冗談で言ってはいたりしたけれど、「そんなばかな・・・。」である。
  まずはバンクーバー国際空港で、アメリカ入国審査のお姉さんにひっかかった。アメリカへ入国する際に、誰でもがI‐94フォームという用紙を記入する。日本人の場合、3ヶ月以内の滞在ではビザは必要無く、その紙の色は<緑>であり、3ヶ月以上滞在する場合、ビザが必要でその紙の色は<白>である。私の紙は白なので、まずそこでいろいろ聞かれることになる。
  今回は昨年既に1年も滞在してるので、今更入国の目的が観光ですというのも不自然だと思い、本当の目的であるヨガのティーチャーズトレーニングを受けているとスタジオから書いてもらっていたペーパーを見せた。それからまあなんだかんだで、場所を移され、エアカナダの日本人の女性が通訳として連れてこられ、審査官がお姉さんから固そうなオヤジに変わり、またいろいろ聞かれた。
  私は今回の入国を少し甘く考えていて、日本との結びつきを証明するペーパーや、私の持っているお金が日本で稼いだものだという証明を持っていなかった。これらは渡米前に観光ビザを取得するために準備したものでもあるが、今回はアメリカの自分の部屋においてきてしまっていた。
  彼らは私がアメリカで働いていたのではないか、このままアメリカにとどまるつもりではないかということを否定する書類を必要としていた。口でいくら言っても、何にもならず、とにかく書類が無ければ何にもならなかった。何回かスーパーバイザーと相談したらしいが、とにかく証明するものが無ければ、今は入国を許すわけにはいかないと言われ、後でバンクーバーのアメリカ領事館へ行けということになった。
  結局、その場所に今度はカナダの入国審査官が来て、普通のビジターが通らないルートでカナダの入国審査の場所へ連れて行かれ、またいろいろ聞かれて、とりあえず2週間のカナダ滞在の許可が降りた。
  見知らぬバンクーバーでこの沢山の荷物を持ってどうしたらいいのか、私はまったく途方に暮れてしまっていた。その辺をうろうろしながら、まずはテレフォンカードを買い、サンフランシスコ空港へ迎えに来てくれることになっていた友人と、次の日に一緒にコンサートへ行くことになっていた友人に電話をした。
   空港のインフォメーションに行こうとしたところ、そういえば今カナダを旅行している友人(Sさん)がいることを思い出し、バンクーバーがどうかは覚えていなかったが、とにかく実家に電話をして連絡先を教えてもらおうとかけてみた。そうしたら、運のいいことにちょうどバンクーバー在住の友人(Aさん)がSさんの連絡先になっていた。
 藁にもすがる思いで、そのお宅へ電話をしたら、Sさんは2日後に来ることになっているという。日本人だったので、事情を話したら、それならどうぞ来てくださいと言われ、そのお宅へお邪魔することになった。真っ暗闇の中に光を見た思いである。その日のバンクーバーは私の状況とは打って変わって快晴で、山がくっきりととても美しい。後からわかったことだが、この時期にはめずらしいよい天気だった。
  それからアメリカの友人に連絡をとり、私の部屋にある書類を送ってもらった。またある友人は知り合いの議員に連絡をとってくれたり、移民関係の弁護士に聞いてみてくれたり、いろいろ手をつくしてくれた。実際にバンクーバーのアメリカ領事館のボスにもスタジオからコンタクトをとってくれた。
   私がアメリカ領事館へ行くことになったのは木曜日の朝8時。実はその前日にアメリカから領事館へ連絡をとった結果、入国はかなり難しそうだという連絡をアメリカの友人からもらっていた。とりあえずその場合もあるのだと、一応こころして望んだが、やはり結果は、「今は日本へ返れ」というものであった。
   その理由として以下のような事を言われた。18ヶ月もの長いトレーニングやコースを取る場合、必ず学生ビザ(この場合はMビザ、大学は違う種類のビザになる)が必要である。学生ビザを取得するためには、主催機関が移民局から学生ビザを発行できる許可をもらっていなければならない。もし、その許可がないならば、そのトレーニングに外国人をとることはできない。私のビザは観光ビザ(B1/B2ビザ)なので、このビザでは18ヶ月を一度に取ることはできない。これは法律なので、とにかく許可するわけにはいかない、うんぬん。
   この場合、空港で言われたことよりも、まずビザの問題が根本にあり、もうどうにもならないと思った。実際、空港の入国審査を担当している所と、領事館とは管轄は全然違うらしい。また領事館のおっちゃんが言うには、もしサンフランシスコやロスアンゼルスから直接入ったとしたら、入国できた可能性もあったかもとも言われた。バンクーバーはカナダとアメリカとの国境に近く、やたらと厳しいところらしいことは後からわかった。ポートランドの入国審査が厳しいことは聞いたことがあったけれど・・・。また、入国審査官によっても対応が全然違うという話もよく耳にする。今回、私はまったくオオハズレだったわけだ。
   ダウンタウンにあるアメリカ領事館を出たのが9時半頃で、そのままその辺をぶらぶらする。何だか何も考えられない。とにかく11時に開店する日本食材店のインターネットを使いたいたかった。その辺のカフェに入り、ラテを注文し窓に面しているカウンターに座る。もう、どうしようもなく涙がこぼれてくる。悔しいとか、怒りとかいった感情ではなく、ただただ悲しい。
  10時半にそこを出て、電話をして、インターネットを使いに行く。メールのチェックをするが、日本の友人からのメールさえ読む気力がない。アメリカで事情を知っている数人にとりあえずメールを送る。書きながら、また涙がこぼれてしまう。もうアメリカへ行けないのだから、せめてカナダのその辺に旅行しようかと旅行社へ行くと、満席だったり、ギリギリで航空券が高かったりで、それもできなかった。
  またあてどなく街をブラブラし、航空券の日程変更をし、メトロタウンという大きなモールへ行ったりした。バンクーバーにあるスカイトレインという電車に乗っている時も、涙がツーっとこぼれてくる。他のことをしていると気がまぎれるが、そうでないとこれである。
   Aさん宅へ帰ったのが夕方で、それからアメリカへまた電話をする。その日は電話をしては泣いてしまっていた。アメリカのことを考えると、もうだめだった。夜、布団にはいってからも、また泣けてくる。自分でもよくこんなに涙が出てくるなあと思う。号泣はできなかったので、さめざめ泣いていた。
   次の日からは、胸にぐっと来ることはあっても、どうにか泣かないようになり、一応平静を保てるようになった。今度は自分の部屋の荷物の始末とか、アメリカの友人にお願いしなければならないことも多く、処理を考えなければならなくなった。しかし、すぐにはアメリカへ行けないけれど、6月頃には行けそうだという考えが浮かび、またクラスメイトに会えると思うことで、ずいぶん楽になった。6月がそのプログラムの卒業なので、せめてその日にはその場所にいたいと思った。
   また、カナダのAさんやSさんの友人がその辺に連れていってくれたりして、そんなことでも気がまぎれた。バンクーバーは水の街であり、(アメリカの移民局を除けば)よい街だと思う。今年は例年になく天気がよいらしく、それもよかった。もしホテルに滞在していたとしたら、不安と孤独でもうどうしようも無かったと思う。本当にこの縁には感謝してもしきれない。
   実際に、こんなことがあるのかということを身を持って感じたあとに、いかに私がアメリカでの時間に慣れきってしまっていたかということを思った。全てのことには終わりがあり、別れがあるということを知っているつもりでいたけれど、こう突然に身に降りかかると、それに対する準備が全くできていなかったことに気づかせられる。
  いつ、こういうことになっても、十分にそこでの時間を生きていれば、きっと後悔はしないはずなのだ。私はアメリカで英語ができないということに甘え、それを理由にし、いろいろなことを後伸ばしにしていた。今は、こんなことになるなら、やはりもっといろいろやってみるんだったと思ってしまう。もちろん、実際に体とのバランスがあるので、何から何までできるわけではないけれど、もう少し違うように時間を過ごせただろう。
  まあ、とりあえず生きているのだし、またアメリカに行って友人達に会うことも(多分)できるだろうし、これからでもできることはたくさんある。アメリカのある友人には「日本に今いなけれなばならない理由があるのよ」とも言われたし、まあそうかもしれないし、そうでないかもしれない。ただ、誰もが仕事をきちんとこなしたという結果がこれなので、これも私の運なのだろう。
   昨年末は日本シックになっていたが、今はアメリカシックになってしまった。食べ物ではなく、ヨガ友人環境シックであるけれど。 長岡の天気は今日はひさしぶりに晴れています。屋根の上の積雪は1メートル以上です。今日は土曜日なので、雪下ろしをしている人がたくさんいます。本当に大雪です。
   ベイエリア通信はこれで終わりにします。今まで読んでいただいて本当にありがとうございました。まったく予想もしない幕引きとなってしまいました。これからどうするかまだ決まっておりませんが、新潟市界隈でヨガのクラスなどもぼちぼちしようかなあとも考えております。ご興味のある方はご連絡ください。新潟の友人の皆さん、せっかく送り出していただいたのですが、またすぐにお会いしましょう。ハハハ・・・。
  それではまた。みなさま風邪などひかぬよう、どうぞご自愛くださいませ。
(2011年の後記)
そういえばそんなこともあったなあと思う。
10年って昔ですね。
空港で「別室」に連れて行かれ、
ここがうわさの別室だ・・・と思ったことを覚えています。
この続きもまだあります。お楽しみに!
当時、ある友人はこのメールを読んだときに、
申し訳ないけど笑ったよ・・・と言っていた。
いえ、どうぞ遠慮なく笑ってくださいませ。
「入国を拒否される」という、めったにできない経験をしたことは、
今となっては懐かしい思い出ですわ。

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