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ベイエリア通信#18 2001年1月20日

(この記事は2001年に書いて友人に送っていたメールの転載です)
(ハンカチをご用意ください)
そんなバカな・・・
 12月中旬にキャンセル待ちだった1月6日のエアカナダ成田発バンクーバー経由サンフランシスコ行の便がとれたと旅行会社の人から言われ、仮予約していたサンフランシスコ直行便のユナイテッド航空から変更した。理由はエアカナダが3万円ほど安かったからだ。そもそもこの時点で、今回の結果は出ていたのかもしれない。
  1月6日に成田空港のチケットを受け取るカウンターで、バンクーバーでアメリカの入国審査があることを初めて知った。私はてっきりサンフランシスコで入国審査があるものとばかり思っていた。「バンク-バーでアメリカの入国審査がありますので、荷物を一旦受け取ってください。」と旅行会社のお姉さんに言われた時に、何となくいやな予感がしたのだ。どうりでエアカナダはサンフランシスコ国際空港で国内便到着のターミナルを利用しているわけだ。そのことは既に知っていた。よく考えれば、カナダで入国審査をするからだという想像も働いてしかるべきだと今は思うけれども、その時はそこまで考えが及ばなかった。でも、もしバンクーバーで入国審査があることを事前に知っていたなら、私は絶対エアカナダのチケットは買わなかっただろう。いろいろ知らなくても、いやな予感がするではないか。
  ここまでの文章で、私に一体何が起こったかうすうす感じられていると思う。今回の通信は「ベイエリア通信」ならず「長岡通信」になっているのである。そう、私はバンクーバーでアメリカ入国を果たすことが出来ず、1月17日に日本に帰ってきちゃったのである。あなたの周りにこんな経験をしたことのある友人はあまりいないはず・・・。こんなことが実際自分の身に起こるとは、冗談で言ってはいたりしたけれど、「そんなばかな・・・。」である。
  まずはバンクーバー国際空港で、アメリカ入国審査のお姉さんにひっかかった。アメリカへ入国する際に、誰でもがI‐94フォームという用紙を記入する。日本人の場合、3ヶ月以内の滞在ではビザは必要無く、その紙の色は<緑>であり、3ヶ月以上滞在する場合、ビザが必要でその紙の色は<白>である。私の紙は白なので、まずそこでいろいろ聞かれることになる。
  今回は昨年既に1年も滞在してるので、今更入国の目的が観光ですというのも不自然だと思い、本当の目的であるヨガのティーチャーズトレーニングを受けているとスタジオから書いてもらっていたペーパーを見せた。それからまあなんだかんだで、場所を移され、エアカナダの日本人の女性が通訳として連れてこられ、審査官がお姉さんから固そうなオヤジに変わり、またいろいろ聞かれた。
  私は今回の入国を少し甘く考えていて、日本との結びつきを証明するペーパーや、私の持っているお金が日本で稼いだものだという証明を持っていなかった。これらは渡米前に観光ビザを取得するために準備したものでもあるが、今回はアメリカの自分の部屋においてきてしまっていた。
  彼らは私がアメリカで働いていたのではないか、このままアメリカにとどまるつもりではないかということを否定する書類を必要としていた。口でいくら言っても、何にもならず、とにかく書類が無ければ何にもならなかった。何回かスーパーバイザーと相談したらしいが、とにかく証明するものが無ければ、今は入国を許すわけにはいかないと言われ、後でバンクーバーのアメリカ領事館へ行けということになった。
  結局、その場所に今度はカナダの入国審査官が来て、普通のビジターが通らないルートでカナダの入国審査の場所へ連れて行かれ、またいろいろ聞かれて、とりあえず2週間のカナダ滞在の許可が降りた。
  見知らぬバンクーバーでこの沢山の荷物を持ってどうしたらいいのか、私はまったく途方に暮れてしまっていた。その辺をうろうろしながら、まずはテレフォンカードを買い、サンフランシスコ空港へ迎えに来てくれることになっていた友人と、次の日に一緒にコンサートへ行くことになっていた友人に電話をした。
   空港のインフォメーションに行こうとしたところ、そういえば今カナダを旅行している友人(Sさん)がいることを思い出し、バンクーバーがどうかは覚えていなかったが、とにかく実家に電話をして連絡先を教えてもらおうとかけてみた。そうしたら、運のいいことにちょうどバンクーバー在住の友人(Aさん)がSさんの連絡先になっていた。
 藁にもすがる思いで、そのお宅へ電話をしたら、Sさんは2日後に来ることになっているという。日本人だったので、事情を話したら、それならどうぞ来てくださいと言われ、そのお宅へお邪魔することになった。真っ暗闇の中に光を見た思いである。その日のバンクーバーは私の状況とは打って変わって快晴で、山がくっきりととても美しい。後からわかったことだが、この時期にはめずらしいよい天気だった。
  それからアメリカの友人に連絡をとり、私の部屋にある書類を送ってもらった。またある友人は知り合いの議員に連絡をとってくれたり、移民関係の弁護士に聞いてみてくれたり、いろいろ手をつくしてくれた。実際にバンクーバーのアメリカ領事館のボスにもスタジオからコンタクトをとってくれた。
   私がアメリカ領事館へ行くことになったのは木曜日の朝8時。実はその前日にアメリカから領事館へ連絡をとった結果、入国はかなり難しそうだという連絡をアメリカの友人からもらっていた。とりあえずその場合もあるのだと、一応こころして望んだが、やはり結果は、「今は日本へ返れ」というものであった。
   その理由として以下のような事を言われた。18ヶ月もの長いトレーニングやコースを取る場合、必ず学生ビザ(この場合はMビザ、大学は違う種類のビザになる)が必要である。学生ビザを取得するためには、主催機関が移民局から学生ビザを発行できる許可をもらっていなければならない。もし、その許可がないならば、そのトレーニングに外国人をとることはできない。私のビザは観光ビザ(B1/B2ビザ)なので、このビザでは18ヶ月を一度に取ることはできない。これは法律なので、とにかく許可するわけにはいかない、うんぬん。
   この場合、空港で言われたことよりも、まずビザの問題が根本にあり、もうどうにもならないと思った。実際、空港の入国審査を担当している所と、領事館とは管轄は全然違うらしい。また領事館のおっちゃんが言うには、もしサンフランシスコやロスアンゼルスから直接入ったとしたら、入国できた可能性もあったかもとも言われた。バンクーバーはカナダとアメリカとの国境に近く、やたらと厳しいところらしいことは後からわかった。ポートランドの入国審査が厳しいことは聞いたことがあったけれど・・・。また、入国審査官によっても対応が全然違うという話もよく耳にする。今回、私はまったくオオハズレだったわけだ。
   ダウンタウンにあるアメリカ領事館を出たのが9時半頃で、そのままその辺をぶらぶらする。何だか何も考えられない。とにかく11時に開店する日本食材店のインターネットを使いたいたかった。その辺のカフェに入り、ラテを注文し窓に面しているカウンターに座る。もう、どうしようもなく涙がこぼれてくる。悔しいとか、怒りとかいった感情ではなく、ただただ悲しい。
  10時半にそこを出て、電話をして、インターネットを使いに行く。メールのチェックをするが、日本の友人からのメールさえ読む気力がない。アメリカで事情を知っている数人にとりあえずメールを送る。書きながら、また涙がこぼれてしまう。もうアメリカへ行けないのだから、せめてカナダのその辺に旅行しようかと旅行社へ行くと、満席だったり、ギリギリで航空券が高かったりで、それもできなかった。
  またあてどなく街をブラブラし、航空券の日程変更をし、メトロタウンという大きなモールへ行ったりした。バンクーバーにあるスカイトレインという電車に乗っている時も、涙がツーっとこぼれてくる。他のことをしていると気がまぎれるが、そうでないとこれである。
   Aさん宅へ帰ったのが夕方で、それからアメリカへまた電話をする。その日は電話をしては泣いてしまっていた。アメリカのことを考えると、もうだめだった。夜、布団にはいってからも、また泣けてくる。自分でもよくこんなに涙が出てくるなあと思う。号泣はできなかったので、さめざめ泣いていた。
   次の日からは、胸にぐっと来ることはあっても、どうにか泣かないようになり、一応平静を保てるようになった。今度は自分の部屋の荷物の始末とか、アメリカの友人にお願いしなければならないことも多く、処理を考えなければならなくなった。しかし、すぐにはアメリカへ行けないけれど、6月頃には行けそうだという考えが浮かび、またクラスメイトに会えると思うことで、ずいぶん楽になった。6月がそのプログラムの卒業なので、せめてその日にはその場所にいたいと思った。
   また、カナダのAさんやSさんの友人がその辺に連れていってくれたりして、そんなことでも気がまぎれた。バンクーバーは水の街であり、(アメリカの移民局を除けば)よい街だと思う。今年は例年になく天気がよいらしく、それもよかった。もしホテルに滞在していたとしたら、不安と孤独でもうどうしようも無かったと思う。本当にこの縁には感謝してもしきれない。
   実際に、こんなことがあるのかということを身を持って感じたあとに、いかに私がアメリカでの時間に慣れきってしまっていたかということを思った。全てのことには終わりがあり、別れがあるということを知っているつもりでいたけれど、こう突然に身に降りかかると、それに対する準備が全くできていなかったことに気づかせられる。
  いつ、こういうことになっても、十分にそこでの時間を生きていれば、きっと後悔はしないはずなのだ。私はアメリカで英語ができないということに甘え、それを理由にし、いろいろなことを後伸ばしにしていた。今は、こんなことになるなら、やはりもっといろいろやってみるんだったと思ってしまう。もちろん、実際に体とのバランスがあるので、何から何までできるわけではないけれど、もう少し違うように時間を過ごせただろう。
  まあ、とりあえず生きているのだし、またアメリカに行って友人達に会うことも(多分)できるだろうし、これからでもできることはたくさんある。アメリカのある友人には「日本に今いなけれなばならない理由があるのよ」とも言われたし、まあそうかもしれないし、そうでないかもしれない。ただ、誰もが仕事をきちんとこなしたという結果がこれなので、これも私の運なのだろう。
   昨年末は日本シックになっていたが、今はアメリカシックになってしまった。食べ物ではなく、ヨガ友人環境シックであるけれど。 長岡の天気は今日はひさしぶりに晴れています。屋根の上の積雪は1メートル以上です。今日は土曜日なので、雪下ろしをしている人がたくさんいます。本当に大雪です。
   ベイエリア通信はこれで終わりにします。今まで読んでいただいて本当にありがとうございました。まったく予想もしない幕引きとなってしまいました。これからどうするかまだ決まっておりませんが、新潟市界隈でヨガのクラスなどもぼちぼちしようかなあとも考えております。ご興味のある方はご連絡ください。新潟の友人の皆さん、せっかく送り出していただいたのですが、またすぐにお会いしましょう。ハハハ・・・。
  それではまた。みなさま風邪などひかぬよう、どうぞご自愛くださいませ。
(2011年の後記)
そういえばそんなこともあったなあと思う。
10年って昔ですね。
空港で「別室」に連れて行かれ、
ここがうわさの別室だ・・・と思ったことを覚えています。
この続きもまだあります。お楽しみに!
当時、ある友人はこのメールを読んだときに、
申し訳ないけど笑ったよ・・・と言っていた。
いえ、どうぞ遠慮なく笑ってくださいませ。
「入国を拒否される」という、めったにできない経験をしたことは、
今となっては懐かしい思い出ですわ。

ベイエリア通信#17 2000年12月7日

(この記事は2000年アメリカ滞在時に書き、友人に送っていたメールの転載です)
また移民局
 今日の天気 曇りのち晴れ。日本の感覚でいうと秋。クリスマスツリー売り場が通りの一角にでき、ツリーを車に積んで、買っていく人の姿を見ます。あの木は使い終わったら、コンポストになるらしい。う~ん。アメリカで1年に消費されるクリスマスツリーは結構な量になるのだろうなあ。もちろん、それ用に育てているのだろうけど、何か???が付きまとう消費の形である。
   帰国まであと10日である。今から、帰った時にやらねばならないことのため、インターネットで電話番号を調べて電話したりしている。それにしても、やはりインターネットはすごい。NTTのタウンページのウエッブサイトを使って新潟市の美容院の電話番号をゲットし、新潟県のサイトから長岡の免許センターの電話もつきとめられた。免許センターのおじさんは、まさかアメリカからの電話とは思うまい。国際免許の申請にまた行かなければならないのだ。美容院の予約も入れた。この1年、一度も美容院に行かなかった。ちなみに私が使っている長距離通話では、アメリカから日本へは1分間14セントだ。
   ただし、私には大きな問題が控えている。INSだ。ずいぶん前の通信で、私の滞在延長が認められた話を書いた。それは、電話で確認したもので、実はまだI-94という送ってあるペーパーが送られてきていない。I-94とは、アメリカに入るときに書くもので、いつまで滞在できるか記されている小さな紙である。パスポートにホッチキスで止められ、出国するときに空港で渡すペーパーだ。
   期日の変更の為に移民局へ延長申請の際に送ってあるのだが、まだ当然のように返送されてきていない。電話でおばさんはちゃんと後で送るからと言ってたのに~。もちろん、何回かまた電話をかけてみた。最長2時間半かけた日もあったが、つながらなかったので、今回はあきらめた。(参考までに、朝日新聞のAIC:アサヒインターネットキャスターというウエッブサイトの読者欄にアメリカでいかにことが進まないかの投書が載っている。結構おもしろいサイトなので、興味がある方はのぞいてみてください。連載もおもしろいです。)多分、それがないと空港でいろいろ言われるだろう。ただ、アメリカを出るのだから、日本へ戻ることはたいして問題はないと思う。
   問題は、再入国のときだ。たった2週間ちょっとで、またアメリカに入国、その前の時にI-94フォームがないのはしっかり記録に残っているだろう。もちろん、私の落ち度ではないけれど。一応、通っているスタジオからは、通っているよというペーパーを書いてもらう。けれども内心は結構不安である。大丈夫かしら、空港で入れなかったらどうしようと、悪い方へも想像は膨らむ。まあ、想像してもどうしようもなく、なるしかならないのはわかっているけれど。
   今年の通信はこれが最後になる。次回の通信で、再入国できたかどうか判明する。アメリカからまた通信を送れることを、切に切に願っているのであった。それでA子は12月18日夕方に日本に到着し、1月6日夜に日本を出発し、再渡米を図ります。ちょうど年度末の忙しい時期ですが、お会いできる人はお会いしましょう。それから新潟市界隈で平日の昼間に温泉に行ける人がいたら、行きませんか?(そんな人はいるのだろうか?)もし、温泉に行けなかったら、新潟市の銭湯でも行こう。18日、19日夜と年末から1月は長岡の実家にいる予定です。それ以外は、新潟市界隈や日本海付近をふらつく予定です。寒くて海岸はふらつけないかしら?基本的には実家以外に連絡はとれません。携帯ももってないし、メールも日本では使えません。おおー、なんてことだ。帰国前に、メールでやりとりした方が、便利だとは。何かヘンなような気もするが、現実はそうなのですね。
  今年は勝手に送っているこの雑文通信を読んでいただき、本当にありがとうございました。励ましのメールとかもいっぱいもらいました。それらにどれだけ励まされたかわかりません。コンピューターについての議論はいろいろありますが、もしメールがなかったら、今とはまた状況が違っていたと思います。きっと、もっと早くホームシックになっていたことでしょう。
  では皆さん、年末のお忙しい時期、風邪などひかぬよう、元気に楽しい時間をお過ごし下さい。
※番外編  
今日「ビリー・エリオット」というイギリス映画を観てきました。6時前なので5ドルです。普通は8ドルくらい。日本に較べるととっても安い。でも、映画館に行ったのは、これで3回目です。やはり、アメリカ英語とイギリス英語の発音は違うのですね。とても聞き取りにくかった(というよりも聞き取れなかった)。アメリカでテレビを観ているときの感覚とも、また違いました。私はわからないなりにアメリカ英語に慣れていることを実感しました。映画は、主人公のビリーという12歳の少年がよかった。けれども、1984年の北イングランドの情勢がわからない私としては、映画の意味が多少つかめなかった部分があります。それでも楽しめました。日本でも公開されているのかしら?
(日本では「リトル・ダンサー」というタイトルで公開されていました。)

ベイエリア通信#16   2000年11月29日

(この内容は2000年、アメリカ滞在時に書き、友人に送っていたものを転載したものです)
沈黙の週末
 今回は1ヶ月ぶりです。一時帰国前にもう1回発行できるかな?A子は18日夕方に成田に到着し、長岡の実家に帰ります。あと、3週間じゃないですか!温泉、お鮨、おいしい魚、お風呂、ああ~。
 今日の天気は朝は雨模様、昼頃から晴れ。昼間はTシャツでも涼しいけどOKだけど、やはり外では長袖でしょう。朝夕は暖かい服装が必需。
 11月23日は感謝祭(サンクスギビング)だった。この祝日は宗教には関係無く、誰でもが楽しめるアメリカの祭日である。家庭ではターキーを食べたりする。この日はみんな食べ過ぎるらしい。
 
 私は何をしていたかというと、[ヨガ&禅のリトリート]に参加していて、ベジタリアンのおいしい食事をいただいていた。ベジなのでターキーは無かったけど、ご馳走だった。
 
-生野菜(マッシュルームとかも生-こちらではブロッコリーやカリフラワーなども生で食べてしまう)とディップ(3種類のディップがあった)。
-豆腐のスライス(ドレッシングがかかっている、こちらの豆腐は日本の豆腐より固いものがあるので、スライスできちゃうのだ)。
-ナッツローフ、マッシュポテト、グレイビーソース(中身はよくわからなかった)、クランベリーソース、ビーツ(日本にはない根菜)のサラダ、グリーンサラダ、グリーンライス(ライスに何かのハーブを混ぜてある)。
-そして極めつけは6,7種類ものパイ(3種類のアップルパイ、レモンクリームパイ、パンプキンパイ、チョコレートパイ、ピーカンパイ)などなど。
 私の人生の中で、こんなに多種類のパイを一度に味わったのは初めてである。一般にアメリカのデザートは甘すぎて、閉口することも多いのだけれど、このリトリートの食事は料理人がTASSAJARAという食事がおいしいという評判の禅関係のリトリートセンターから来ていたので、どちらかといえば料理は薄味で、デザートも含めみんな本当においしかった。
  このリトリートは、私が参加しているヨガのプログラムの先生と、禅(多分曹洞宗系)のお坊さんであり、サンフランシスコにある有名な「GREENS」というベジタリアンレストラン(私はまだ行ったことがない)の関係者であり、料理本を数冊出している、そのダンナの主催だった。水曜日の夜から日曜日の昼まで、座ったり、ヨガをしたり、食べたり、お話を聞いたり(日本で言う講話?)、労働したり、散歩したり、ボーっとしたりしていた。
  実は最近どうやらこの10ヶ月の疲れが出てきたらしく、どうもあちこちあまり調子がよくなくなっていた。人からはTake it easyと言われ、これはちょっと本当にそうしないとだなあと思い、ちょうどよいタイミングだったので参加することにした。 
 実際、本当にゆっくりできた。というのはこのリトリートはSilenceが一つの目的であり、公共のスペースとか食事中でも話をしないのだ。もちろん必要事項は話すけれど、話す時も小さい声で話し、静寂を守る。これが私にはありがたかった。
  普段は食事中に同じテーブルの人が何を話しているのか、終始耳を澄ませて聞き、会話に加われないことにストレスを感じてしまう。最近ほとほと感じるのは、聞くコンディションが整っていないと、聞き取るのがとても大変だということだ。レストランの中(とにかくみんな話すので騒がしい)、街の騒音の中、車の中-例えばバックシートに乗っていると、フロントシートで話している人の声がとても聞きづらい、などなど。日本語でも同じコトだけれど、英語だとそのハンデが倍増してしまう。だから、4,5人くらいで一緒にいる時は、何となく彼らとの距離を感じてしまい、寂しさを感じてしまうことが多々ある。
  今回はこの状態があまり発生しなかったため、本当にホッとしてくつろぐことができたのだ。ただそこにいることを楽しめた。アメリカ人にとっても、話さないで許される時間というのはかなり貴重らしく、みんなそれなりの自分の時間を過ごしていた。
  今の忙しい世の中で生きている私達には、こういう時間は本当に貴重な時間だ。お坊さんが、ある話の中で「心もケアして、栄養をあげないと」言われていた。このようなリトリートだと、沈黙の時間を過ごしてはいるのだけれど、同じ空間に一緒に座ったり、存在していることによって、時間とともにある種の共有の感覚が生まれ、言葉はないけれど、その波動がお互いを支えることになる。特に座っているときは、20人弱程度はいるのに、2,3日目くらいから本当に静かになった。
  私の場合、座っているときも心はあちこちへ行ったりで、自分の中はずいぶん騒がしいのだけれど、空間自体は人がいないときよりも、さらに静かな空間へと移行しているような感覚だった。一人で座るときとはまるで違う。このような自分の時間を大切にしつつ、お互いに支えあえるという場そのものが、自然に心をケアしてくれるように感じる。
  アメリカの場合、会話での沈黙を嫌うらしく、とにかくみんなよく話す。スモールトークと言われるちょっとした会話がうまく、日本人よりも一般的にみんな社交性がある。けれどもその会話は別段意味の無いことも多く、それ自体に疲れることもあるのだろう。
 日本でも、もちろんみんなしていることではあるけれど、アメリカとはやはり少し質が違う気もする。How are you?と聞かれたときに、別にfineでなくても、fineというのが挨拶なのだ。もちろん、近い友人の間では本音で話すだろう。しかし、基本的には自分のウィークを見せない、楽しく振舞うという傾向は日本よりもはるかに強いような気がする。
  また、これは友人達の間で交わされるどうでもよい話とは質が違う。こちらにきて友人と交わすどうでもいい話が、どんなに生活に必要かということをつくづく感じている。私はそういうどうでもいい会話ができる英語力がないため、真面目っぽい話しかできない。また英語のユーモアを理解するには、最低10年くらいかかりそうだし(10年いても大変かも)。だから生活の潤滑油が不足してしまう。
  そんなこんなで私はどうやら、カリフォルニアの乾燥した気候の下で、精神的にも身体的にも少し渇いてしまい、お肌がカサカサになった感じなのだ。最近、雨が降るとホッとするし。このような状態で参加したリトリートで、思いがけない暖かい言葉も人からもらったり、ずいぶん楽になった。
  帰ってきて自分の部屋のドアを開けた途端、部屋の散らかりように愕然とし(部屋がおおばらだってことをすっかり忘れていた)、一気に日常に引き戻されてしまったけれど、まだ少しあの時の感覚が残っている。
  アメリカは感謝祭が終わり、あとはクリスマスに向けてまっしぐらである。通りにクリスマスの飾りも登場し、店にはクリスマス商品のコーナーができている。クリスマスの頃は日本だあー。
 そんなこんなですが、まあ元気にしています。そのリトリートから帰ってきた日、こちらで初めてミュージカルを観ました。「マンマミーア」というアバの曲で構成されたミュージカルで、アバの曲の内容がわかってないので、面白さは半減しているものの、エンターティメントとしてかなり楽しめました。バルコニー(一番安い席)で$42。安いですよね。それから来年の1月7日には、なんと小澤征爾指揮の「斎藤記念オーケストラ」がサンフランシスコに来るので、友人と行くことにしました。一番安い席でないけど$53です。安いでしょ。日本だとチケットを手に入れるのさえ難しいのに。アメリカは日本に較べてエンターティメントは断然安いです。というより日本が高いのかも。

ベイエリア通信 #15  2000年10月31日

(この文章は2000年にアメリカから友人に送っていたメールの転載です)
ひさびさ、つれづれ
今日のオークランドの天気 久しぶりにさわやかな快晴、朝寒し。先週末からずっと雨模様。
 今年のカレンダーがあと2枚になってしまいました。こちらの時計もこの前の日曜日から1時間遅くなり、標準時間に戻りました。今日はハロウィーンで、子供達の声が外から聞こえてきました。
  この通信もずいぶんご無沙汰しておりました。私は英語に疲れながらどうにか生きています。今は「日本に帰ったら、温泉、温泉」と,それだけを楽しみにしています。
 この前、NHKの「クイズ新日本人の質問」(数ヶ月遅れで見られます)で「旅行会社の海外駐在の日本人社員が、日本に帰ったらまずしたいと思うことは何か?」という質問があり、私は「絶対風呂だ!」と確信を持って見ていたら、やはりその通りで「熱い温泉に入りたい」でした。たまにバスタブにお湯をはって入ることもありますが、ぜんぜん違うんだよね、やっぱり。毎日(もちろん一日置きでもOKだけど)お風呂に入れることは、ほんと幸せなことです。10ヶ月滞在して、日本のお風呂のありがたさをしみじみ感じているのでありました。巻町の「じょんのび」でも、岩室の「よりなれ」でも、三川でも津川でも、もうどこでもいいから(新潟の人しかわからないですね)、ずぶーっ、ぷはーっ、ぼーっと風呂につかりたいです。ほとんどオヤジですね。
 この文を読むとわかるように、私は少し日本シックになっています。そうそう、こちらにはいろいろな花や木々が庭に植えられているのですが、今まで金木犀の香りに気がついたことがありません。私にとって秋の庭を代表する香りは金木犀でした。それから、稲刈り後の田んぼの匂い。秋の香りがしない秋なのでした。
 さて、ヨガの一般のクラスに出ると、股関節が固いアメリカ人が沢山います。彼らにとってはスクワットや、正座とかの座るポーズが大変です。先生は「イスは災いのもと」みたいなことを言っています。
 ある日アメリカ人の友人に「もし、ヨガとかしてなかったら、家の中で床に座ることってないの?」と聞いたら、「ない」と言われ、「本当にそうなのね」と、改めてびっくりしてしまいました。
 私の知り合いはヨガ関係がほとんどなので、彼らは家の中でも靴を脱いだり、床に座ったりしています。だけど、ヨガとか合気道とか空手とかインド音楽とかアラブ音楽とかZENとかアジア系の何かに関わっていなかったら、アメリカ人(やヨーロッパ人)にとって床に座る機会はあまりないのです。「床に座らないのか~」とつくづく変な感じです。頭ではわかっているつもりでいても、実際に聞いたりするとやはり新鮮に驚いてしまいます。当然和式のトイレでは用が足せないだろうね。
 日本人も最近は家の中でもテーブルやイスが増え、昔のように床に座らなくなっているように思います。ヨガの先生は家の中からイスを無くした方がいいと言っておりました。彼の家のキッチンはテーブルとイスではなく、低いテーブルを使っています。このテーブルどうしたのと聞いたら、足を切ったんだと言ってました。おおーそうかと納得。こちらでは座った時にちょうどよい高さになるテーブルはあまりありません。日本の家具を扱っている店とかでは見つけられるようですが、高いです。
 私が子供の時は、家の中には勉強机とセットの椅子と、ミシンのイスしかなかったように記憶しています。今は、そんなものじゃないですよね、一般家庭は。
 そうそう、和式トイレは、用を足しながらハムストリングス(太ももの後ろ側の筋肉)を伸ばし、股関節や足首の関節も柔軟にする、子どもや若者にはすぐれた便器だったのでした。ウオッシュレットまでついているイス型便器で用を足している今の日本の子供達の将来はいかに?今の日本の小学生とアメリカの小学生では、昔ほど体に違いがないような気がします。
 ちなみに、ウオッシュレットをアメリカで見たことはありません。暖房便座もないぞ。あれは日本だけなのでしょうか?もしかしたら、日本のトイレはあまりにも快適過ぎるトイレなのかもしれません。あの快適さに小さい時から慣れてしまうのも考えもんです。ウオッシュレット付き快適トイレが使えるのは、選挙と一緒で二十歳を過ぎてからとかにした方が、きっと子どものためになるような気がしますが、どうでしょうか?なんだか、金木犀がいつのまかトイレの話になってしまいました。
 今度、何人かに薦められた近くの「ピデモント スプリング」というホットタブがある所へ行ってみようと思っています。10ドルだったか20ドルで1時間個室のホットタブに入れるらしいです。
(2011年の後記)
ピデモント スプリントには結局行かずじまいだった。だけど、サンフランシスコのホットタブには行きました。個室でなくて、日本で言うところの日帰り温泉なんだけど、日本のとはえらい違っていた。

ベイエリア通信 #14  2000年9月10日

(この文章は2000年にアメリカで書いて友人に送っていた文章です)
ベイエリアにいる理由
 日本はやっとやっと少し秋らしくなってきたようですね。暑い長い夏の後の日本の美しいおいしい秋をどうぞお楽しみ下さい。
  私が通信を送っている人の半数は、「一体、Yさん(Yちゃん、A子さん)は何しにアメリカに行ったんだろう?」と思っているはずだ。この通信を読んでいても、その目的は全然見えてこない。
 「英語の学校には行っているらしいけど・・・。」もちろん、英語の勉強だけのためにアメリカに来るなんてことはない。「最近はサンフランシスコへよく行って遊んでいるみたいだけど、本来の目的はどうなっているの?」と理由を知っている人も思っているらしい。サンフランシスコ通いは、ある目的があったのだ。決して遊びほうけていたわけではない。
 「それじゃあ、一体何なのさ?毎日何をしているの?」 というわけで、私も何となく落ち着き、今まで多く(?)の友人からリクエストのあった上記の疑問にお答えする通信を書こうかな気分にようやくなった。
 私がこちらに来た理由は、1年半のヨガのアドヴァンストレーニングプログラム(ティーチャーズトレーニング)に参加するためなのだ。 
  「ヨガならインドじゃないの?」と考える向きも多いと思う。たまたま私が縁のあった先生がアメリカ人で、こちらに来る前は東京やハワイとかで彼のワークショップに1年に1回くらい参加していた。彼のスタジオでの上記のプログラムに、前から参加したいなあとは思っていたのだけれど、いろいろなタイミングが合わずあきらめかけていた。
 しかし、今年からプログラムの内容が多少変わり、やっぱり行ってみたいという感情がフツフツと湧き上がってきたのと、それに加え、自分の状況もがんばればどうにか渡米できそうになり、「行くぞー」と決めたのが、去年の6月か7月頃。その後、ビザの取得のために多くの方にもご尽力いただき、思っていたよりも問題なく観光ビザであるB2ビザを取ることができた。アメリカの場合、3ヶ月以内の滞在ならばビザはいらないが、それ以上の場合はビザの取得が必要になる。
 しかし、英語で文章を書いたりとか、いろいろな書類の準備やらで、この時点で既にかなりのエネルギーを使い果たしてしまった。9月からは少しは英語に慣れておかないとと、週2回の英語のクラスに通ったりもした。年末はバイトの傍ら、実家への荷物の引越し準備だ。これがまた疲労の原因となった。なんせ一人暮らし15年以上分の荷物なので、相当の荷物となっている。足りないのはダンナだけだった。でも、ダンナは実家に送るわけにはいかないので、とりあえずいなくてよかったことにしておこう。ハハハ。。。 
 そんなこんなで、年末には「どうしてアメリカなんかに行くことにしたんだろう?」という、おいおい最初の決心はどこに行ってしまったのさ状態になっていた。既に夏前の高いテンションではない。しかし、私の性格上こうなることは事前に十分に予想されうるものだったので、いまさら後に引けない状況を自分の周りに張り巡らしておいた。また、弱気になっている私を、同居人を始めとする友人達が「何とかなるから大丈夫」とずいぶん励ましてくれた。
 おかげで「渡米するぞ」という意思をかろうじて維持し、アメリカのスタジオ側と頻繁に連絡をとりつつ、こちらで住む家も決まらないまま大きな不安とともに、「えいやっ」でアメリカに来たのが正月気分も抜けない1月4日。その頃のアメリカの家々は、まだクリスマスの飾りが残り、夜の通りをキラキラ照らしていて、日本と違うなあとしみじみしたのを思い出す。「とうとう来てしまった」のであった。
 ちなみにアメリカ側との連絡は、全てEメールだった。これがなかったら、連絡にさらに時間がかかり、さらに手間取ったことは想像に固くない。私がアメリカに来れたのはいろいろなタイミングがうまく重なったからだと思うけれども、加えてコンピュータによる環境の変化によるところも大きい。10年前の私には想像できなかった世の中になったものである。
 それから、本当にあっという間で、もう8ヶ月以上もアメリカに滞在している。何とかなっていると言えないことはない。だがしかし、プログラムのクラスはやはり大変なのだ。クラスについていっているとはとても言いがたい。私にとっての一番高いハードルは当然ながら「ENGLISH」である。そこでは全く容赦のないネイティブスピーカーの速い英語が飛び交っている。ただのクラスでなくティーチャーズトレーニングだから、ディスカッションありの、ホームワークありの、何でもありである。
 クラスメイトは現在32人。外国人は私を含め3人いるが、私以外の2人はヨーロッパからで2人ともこちらに長く、英語には問題がない。このプログラムに参加するためにカリフォリニア以外の州から移動して来た人は私を含め8人。男性は8人。年齢は20代から60代まで幅広いが、20代後半から35歳くらいまでが一番多い。
 クラスは週2回、火曜日は朝7時から10時または10時半まで、木曜日は朝7時から11時まで。火曜日は8時15分以降は、動きの解剖学やヨガ関係の哲学などの勉強っぽいことをする。木曜日はポーズを中心とするクラスである。それ以外に、少なくとも週に1回はプログラムの先生の一般クラスを取るように指示されている。7月下旬から先週までは夏休みだった。
 それ以外の時間は何をしているかというと、7月まではESLクラスに通っていたりもしたのだが、この9月からは行っていない。その代わりに友人の家の掃除や、紹介してもらった家の掃除などをして、小遣いを稼いでいる。それから、スタジオの掃除も週に1回、1時間半くらいする。これでプログラムの参加費が少し安くなっている。私は掃除しにアメリカに来たのかしら?と思うような状態だ。
 実際、私のビザでは公に働けない。移民局にばれたら、帰国しないといけないので、みなさん絶対にちくらないように。どちらにしても英語が不自由なので、できるコトといえば掃除くらいなのだ。すっかり肉体労働者と化しているのであった。日本での今までの仕事暦は英語ができないとアメリカでは何の役にも立たない。英語が使えれば、もっと何らかできように、少し情けない気分ではある。しかし、掃除仕事も悪くはない。少しでもお金がもらえて、ずいぶん助かっているのだ。仕事をもらえるだけでもとてもありがたいと思う。またおもしろいことに、アメリカ人の掃除に対する考え方は、日本人とはずいぶん違うように感じる。それはまた別の機会に書こうと思う。
 とりあえず、今回はこんなところで。これで胸のつかえ(?)がすっきりした人が多いハズだろう。ハイ、私はヨガしにアメリカくんだりまで来ています。第三者的に聞くと、変わっている人のように聞こえる気もしないではない。でも、普通なのだ。変なTシャツも着てないし。ストレスと好奇心からの食べ過ぎでまた太ったし。精神的にはまだまだまだまだ・・・・・。
(2011年の後記)
日本にヨガが流行る前だったよなあ・・・行ったのは。
今はヨガ留学なんで言葉も見かけるけど、そんなおされな感じは微塵もなかった。

ベイエリア通信#13  2000年8月29日

(この文章は2000年にアメリカで書いて友人に送っていた通信です)
ハズレサンフランシスコday
○今日のオークランドの天気 曇り、ときどきなんと雨。とっても寒い。セーター着用者多し。
 先週の土曜日にサンフランシスコのエクスプラトリアム(展示品に触れて学ぶ科学博物館みたいなところ)で開催している企画展示を見に行こうと、サンフランシスコへまた行った。その前に1週間も通ったものだから、気分的にずいぶんサンフランシスコを近くに感じるようになった。
 ところが、バートの駅から地上へ出て、目的のMUNI(サンフランシスコのバス)の番号を探したところ見当たらない。地図を見て、「この辺なんだよなあ。。。」とあっちに行ったり、こっちに行ったり、気がつけばもうユニオンスクエア(サンフランシスコで有名なショッピングエリア)ではないの。やっと、目的の番号をバスストップで見つけたが、そこは一方通行で反対方向へ行く路線だった。
 そんなして疲れてきたところで、ビルケンシュトックというドイツのシューズメーカーショップのウインドウの「sale」文字が目に入り、ついふらふらと中に入り、セール品に手を出してしまった。このメーカーのサンダルは去年の新潟では石井スポーツでしか買えず、それも2種類しか種類がなく、色も選べる状態ではなかった。ここは直営店なので、いろいろ種類が豊富である。買った後、「こんな買い物をするハズではなかったのに。」と、買い物袋を見てため息をついたりもしてしまった。なら、買うなって、ね。購入物は来年の夏用サンダルになる予定。
 その日はエクスプラトリアムをあきらめ、マンガを買おうとジャパンタウンにある紀伊国屋書店に行き先を変更した。数週間前にサンホゼの紀伊国屋で買おうかどうしようか迷って買わなかった「研修医なな子」の最新刊である最終巻を、「やっぱり買おう。たまには(?)頭を空にして、ぼーっとマンガを読むことも必要だあ!」と、毎週末に1,2時間もボーっと日本のテレビ番組を見ているにもかかわらず、安いレストランだったら2食の値段に相当、読めば約30分で終ってしまう「研修医なな子」を買おうと決心して、行った。こちらで買ったマンガは「陰陽師」9巻だけ。私としては、かなりがんばって我慢している方だ。
 だがしかし、コミック売り場が近づくに連れ、いやな予感が、、、予感は的中した。なかった。1巻と4巻しかなかった。「そんなばかな。」サンホゼにはあったのにー。落胆しつつ、先日、同様に買おうか迷っていた立花隆の東大での講義をまとめた本を見たが、またなかった。使えないサンフランシスコ紀伊国屋書店であった。サンホゼよりもずいぶん大きいのに、おいおいしっかりしてくれよ紀伊国屋気分。
 その後、他の立花隆の本を少し立ち読みし、ある新書を1冊買い、全てが思い通りに行かない反動で日本食料品店でインスタントラーメンなどをしこたま買いこみ、バスに乗ってユニオンスクエアへ戻った。インスタントラーメンは中華三昧とかサッポロ一番、出前一丁、うまかっちゃんなどいろいろ売っているが、私が一番好きな昔ながらの素朴な「マルちゃんの塩ラーメン」は見たことがない。インスタントラーメンはジャンクフードと知りつつ、日本の味が懐かしい非常食なのである。
 ユニオンスクエアにはメーシーズ(Macy’s)という、日本で言えば伊勢丹とか三越みたいな有名なデパートがある。通りを歩けば、メーシーズの紙袋を持っている人にあたる。新聞には毎日メーシーズの広告が数面も載っている。儲かっているのね。私はめったに行かないけれど、朝からのハズレショックでボーっとしていたので、セール中のメーシーズにもフラフラ入ってしまった。
 けれども、基本的にデパートでのお買い物は疲れるのでそれほど好きでもなく、とりあえず興味のあるところで地下のキッチン用品売り場へ向かった。いやあ~、やはり日本と違いますなあ、と思うのは皿とかナイフやフォークや包丁などの売られ方である。
 基本は「セット」なのだ。「ドーンと買ってけぇー」とでも言っているように、セット用の箱に入って売られている。日本も皿の5枚セットとかよくあるけど、数種類の大きさが揃っている同じ柄の皿のセットがドーンと箱に入って売られているのはあまり見ない、ですよね?日本人は結構少しずつ好きな食器を揃えていくように思う。もちろん、ここでもそれぞれバラで買えるけれど、メーシーズの売り場の基本は同じ柄のいろいろな大きさの皿が10枚くらいずつ入っているセットである。
 その理由の一つは食器洗浄機の普及だろう。一般家庭の掃除をしてわかったことだけど、こちらの中流以上の家庭では食器洗浄機を備えているキッチンが多い。それを使う場合は、中身がいっぱいにならないうちは洗わない。ちなみに機械は日本の洗浄機よりもずいぶん大きい。キッチンにオーブンと並び、備え付けである。だから、食器がたくさん要るのだ。そうでないと、食器がなくなるからね。
 きっとシングルや若いカップルなどは洗浄機がない所に住んでいる人が多いとは思うし、あっても夫婦2人とか小人数だとめったに使わない人もいるけれど、子どもがいる中流以上のファミリーで、一軒家に住んでいて忙しくしている人達は、こんな状況のはずだ。
 別の理由として、器に対する感覚の違いがある。日本のように食器を楽しむ感覚は、無いわけではないけれど、平均すると日本人ほどではない気がする。いろいろな器を持っているよりも、同じ種類の皿がどーんとあることの方が便利なのだ。またこちらでは使う皿の種類も少ない。大体「小皿」がない。ケーキ皿はあるけれど。こちらの食事方法は1プレートにいろいろとって食べるか、既に盛り付けてある形式で、日本のように小皿で呈するなんてことはない。よく言えば合理的、便利、洗い物が少なくてラク、悪く言えば大雑把。私は大家さんの食器を使っているので、今はすっかりアメリカ風1プレート食事である。
 包丁もセットで売られている。いろいろな包丁が包丁刺しとともに、セットになっている。そんなに使うのか、かなり疑問。ちなみに私の住んでいる家とある友人宅のキッチンの包丁は、強力マグネットで壁にくっついている。これを初めて見たときは、「すごい」と思った。包丁がむきだしじゃあ~。でも、マグネットが本当に強力なので、落ちません。まあ落ちたら商品にはならないか。
 こちらで日本に帰る前に買いたいなあと思うキッチン関係商品は、鍋関係と、キッチン電気グッズ。アメリカ人はあらゆることに関して、いかに楽にできるかを追求しているので、そういう手間が少なくなる製品の開発が多い。
 例えば掃除用のモップなども、日本人が考えないようなものが多い。モップの先についているスポンジを絞れる工夫がされているのだが、しっかり絞れないので、最初は床がビショビショになる。「こんなんで拭いていいの?」という状態が絞れる最終状態だ。それ以上はいくらがんばっても絞れない。雑巾をきちんと手で絞って床を拭く日本人としては、このようなお掃除グッズはとっても「こんなんで…」と感じるのである。私は密かに、アメリカ人は雑巾が絞れない人が多いのではないだろかと想像している。生活の中に、雑巾を絞る機会がないのだ。台所の上とかはスポンジで拭くし。。。でも、これは未確認情報である。
 キッチン関係に戻ると電気製品のブレンダーやフードプロセッサーなどは強力で、結構いいのがある気がする。電動コーヒーミルも安い。ただし電気炊飯器に関しては、日本で売られている製品のこだわりがすごい。実際、こちらでアメリカ人用に売られている電気炊飯器も日本製のものが多いが、炊飯と保温のスイッチしかなく、お釜も軽いアルミ製が主流。日本で言えば10年くらい前の製品のイメージである。日本人がいかにご飯の炊き方にこだわっているか、アメリカ人がこだわっていないかがわかる。私のアメリカ人友人は、米をといで炊く前に最低30分は置いておく、なんてことはしない。短粒種でも洗ってすぐ炊く。
 アメリカと日本の電化製品を較べると、アメリカ製品は細かな工夫がなく単純でかなり強力、日本のはここまでしなくともと思ってしまうようなデリケートさが特徴で、痒いところにいかにして手を届かせるかにメーカーの競争がかかっている。ついでにアメリカで洗濯していると、服がすぐボロくなる。乾燥機のせいか洗濯機のせいか洗剤のせいか不明だが、きっと相乗効果なのだろう。
 結局その日はちょっと気に入ったセールのイタリア製マグカップを1つ買ってしまった。今月は脳のお金回路がショートしている。もともと数回のヨガワークショップの参加費が結構かかったのが原因であるが、いままで節約、節約でやってきたのが、ちょっとこわれてしまった。来月からはまた軌道修正が必要だあ。
 エクスプラトリアムの見たい展示は今週末まで。行けるかしら?
 とこれを書いた後で、白洲正子と志村ふくみの本をつらつら読み、自分の書くものとの違いをあらためて感じ、かなり恥じ入ってしまった。これらの方々と較べるという前提が間違っているものの、どんな文章でも、その書いている人を表現していることに変わりはない。白洲正子さんの切れ味が鋭く、さっぱりしてあとくされのないここちよい日本語、志村ふくみさんの凛としたきびしさを内包しつつ匂いたつようなふくよかな日本語。言葉では語れないことも多いとは言え、文章も行間から否応無しにその人を語ってしまう。私のは、、、、まあ、いっか!?とりあえず私の眼に映るアメリカってこんなだよー報告ですね。行間にはちょっと日本恋しい私が見えるようだ。トホホ。ともあれ、質の高い文章を読む時間は、うれしい時間です。日本語はきれいな言葉だというのを、再認識させられますね。

ベイエリア通信#12 2000年8月23日

(この文章はアメリカ滞在時に書いて友人に送っていたものです)
日本のノートが恋しい
 残暑お見舞い申し上げます。日本の暑さも峠を越したでしょうか?夜には虫の音が秋の訪れを告げる頃かと思います。ずいぶんご無沙汰してしまいました。アメリカで学生をしているいとこが遊びに来てさらに遠くへonedayドライブをしたり、なんやかんやバタバタしていて、通信を書く余裕がありませんでした。今もその状態が続いているのですが、今日サンフランシスコの比較的大きい?文房具屋で「おっ」と思うところがあり、これを書くことにしました。
 日本製品で何がアメリカのものに較べていいかというと、電気炊飯器をはじめいろいろありますが、身の回りで特に私が感じるのは「ノートブック」です!アメリカのノートは紙が薄く、「こんなのにみんな書いてるのね。う~ん。」と思わせる薄さです。きっと他の国のノートも似たようで、日本のノートの紙質が特別いいのかも?どちらにしても日本のノートは、ずいぶん贅沢なつくりになっていることは確かです。日本では紙質でどのノートにするか悩んだ経験はほとんどありませんでしたから。
 それはさておき、いい紙のノートも多少はありますが、高い。文房具はおそらく全般的に日本より高いです。こちらで特徴的なのは、いろいろな表紙の「日記」用の厚い小型のノート(日本語で適当な言葉が見つからないので)がたくさん売られていて、それはいい紙なんですよね。どうも日記人口が多いらしく、それはデザイン的にいいものからへんなのまでたくさん在ります。ここで私が言う「へんなの」は漢字が変な風にデザインされているものをイメージしています。デジカメがあれば、いろいろへんなものを撮って見せたい気分です。笑えるものがずいぶんあります。
 それで、今回新たに発見したのは、シャープペンシルです。今日シャーペン売り場を見ていたら、こちらでは芯の太さは0.7mmが主流だったのです!加えて言えば、今でも一般的には鉛筆の方がシャーぺンよりも使われています。さらにその鉛筆の多くには、お尻にあの消えにくい赤茶色(もしくは白)の消しゴムがついています!ESLのクラスでは、消しゴムを別に持っていて使っている人を見たことがありません。みんなあの先の消しゴムを使っています。日本ではずいぶん昔にすたれた商品だと思いますが、アメリカでは未だにバリバリの現役で使われていました。
 それでほとんどのシャーペンにも当然というように先に消しゴムが「むきだし」で付いていました。日本のシャーペンについているお尻のカバーが無くなっていて、日本よりも少し高い。今日買った日本で言えば100円シャーペンは1.5ドルでした。「Pentel」製品です。もちろん、白い消えにくい消しゴムがむきだしで付いています。きっと、みんなよく消える消えないはあまり問題でないのかもしれません。一応消えていればOKで、「きれいに消す」ということにこだわりが無い人が多いのでしょう?思うに日本人はきれいに消したがりますよね。世界で一番日本人がきれい好きのような気がしますが、文房具にもその影響が。。。
 ともあれ、日本の文房具はずいぶん質がいいと思います。もちろんアメリカの方がいいなと思う商品もあります。友人にも言われていて、自分も同意するのは「靴」です。アメリカ製品というわけではありませんが、靴の種類が多く、足によいシューズとか、コンフォートなものとか、いろいろ種類が多いです。まあ、靴のことはさておき、日本のノートがとっても恋しいのでした。
 ちなみにペン売り場では、日本製品がたくさん売られています。けれども、私がここ数年愛用している「uni-ball Signo 極細」の Traditional Colorは売られてません。これを友人に貸したりすると、このペンいいねとよく言われます。「It’s cool」です。
 後日談:それから、すいぶんたってからサンフランシスコのジャパンタウンへ行った時に、上記のペンも発見しました。けれども、日本よりもずいぶん高かった。
○今日の天気 サンフランシスコ、涼しい~寒い。朝夕はセーターや皮ジャンとかを着ている人も大勢います。Tシャツもいますが、朝夕はほとんど長袖です。先週の金曜日から明日まで、めずらしく毎日サンフランシスコへ通っています。
<2011年の後記>
現在のアメリカの文房具事情はわかりません。変わったかなあ?
私のここ数年のお気に入りは三菱鉛筆のジェットストリームです!
1.0mmもいいし、0.5mmもいい。ここ数年愛用している一品。

ベイエリア通信 #11  2000年8月5日

(この文章はアメリカ西海岸に滞在していた2000年に友人に書いて送っていたものです)
知らない人との会話、挨拶の風景
 いつもこれは日本とは違うよなあと思う光景がある。  
 例えばスーパーのレジで並んでいると、客とレジスターのオジさん、オバさん、兄さん、姉さんが、レジを打ちながら親しそうに世間話をしている。あなたたちは前から知り合いかい?と思うが、無論そんなことはない。
 スーパーで、ある食品を手に取り、買おうかどうしようか思っていると、通りがかりの人が「私もそれ買ったことあるけど、おいしかったわよ」と声をかけていく。パン屋でパンを手に取っていると、隣の人が「それ食べたことある?おいしかった?」と聞いてくる。私の友人も、店で近くにいた人に、何かを聞いて話していた。
 もちろん、私はレジの人と世間話をしたことはないし、正確に言うとできないし、全ての人が世間話をしているわけでも、いつも話しかけられるわけでも、もちろんない。けれども、平均すると確実に日本人よりもこの辺のアメリカ人はその辺の人によく声をかける。
 こちらでの挨拶は”Hi!” から始まり、“Have you been?” ”How’s going?”“How are you?” ”What’s going on?”など必ず言われるので、何か答えたり、“Good “とか”It’s OK “とかと答える。ちなみに後者はGoodよりも少し落ちた感じになる。例えば人にあそこのレストランはどうだったとたずね、”It’s OK “と言われたら、悪くもないが、良くもなかったという意味だ。レジでも”How are you?”と言われるので、大体”Good “という。ほとんどの人はこう言っている。この場合”Good”でなくても、”Good”と言う。
 これは英語の挨拶で、ほとんど意味はないとわかっているけど、ともすると私にはめんどくさい挨拶になる。日本では一言もかわさないで買い物することさえ多いのに。逆に日本に来たアメリカ人にすれば、日本の光景もずいぶん不思議に映っているのだろう。一言も交わさないのは、きっと不気味に見えているかも。
 同じ家に住んでいる住人からも、家の中で会うと、必ず“Have you been?”“How’s going?”とか言われる。日本では「おはよう」とか「こんにちは」で終る場面である。そして、ちょっとした会話をしたりするのだけれど、実際には彼女らにとって私がその日何をしていたかに興味はないと思う。興味が無いことをなぜ訪ねるかと言えば、これは英語のソーシャルな挨拶で、多分こう言うことは、相手に対する一応の礼儀になっている気がする。慣れないとめんどくさい習慣で、興味が無かったら聞かないで良いのにと思うけど、そういうものではないらしい。私も最近は聞かれたら、聞き返すように心がけている。けれども実際にはよく忘れてしまい、聞かれっぱなしになることが多い。
 このような形のコミュニケーションが発達した背景には、もちろん文化的なバックグラウンドがあるはずだ。他の国の挨拶はどういう形なのだろうか?日本の挨拶はかなりシンプルな部類に入るような気がする。きちんと考えるとおもしろい話題だと思う。
 想像するに、日本人は余計な会話をしなくとも許される環境にあるのかもしれない。それだけある種日本人に共通する暗黙の了解や信号が、既に社会のあちこちに組み込まれているのだ。それに甘えている部分も多く、いいとも悪いとも言えないけれど。
 しかし、ほんの200年の歴史しかない移民の国である現在のアメリカ合衆国では、アメリカ人全体に共通する暗黙の了解の成立はかなり難しい。そうすると、言葉によるコミュニケーションが重要になってくる。多くの日本人にとっては、全てを言葉で説明することを要求される文化は結構めんどくさいと思う。逆に考えれば、全て言葉できちんと説明されるのでわかりやすいとも言えるが、悲しいことに英語がわからないと、わかりやすくない。トホホ。。。
 挨拶と言えば、あまり “Good afternoon” 、“Good evening”とかは聞かないなあ。”Good morning” は家の中とかでは聞くけど、外で会った場合、”Hi,Eiko”と言われることの方が多い。この辺では”Hi!”が基本である。
<学校で習わなかった重要アメリカ英語>
「おいしい」という場合、よく使われる英語にYummy(ヤミィ)がある。もともと幼児語だったが、大人もよく使っている。ただし、公式の場とか男性はあまり使わないかもしれないので注意。私の周りではtastyとかdeliciousよりもよく聞く。しかし、私の持っている和英辞書には載っていない。”It’s yummy!”日常最重要必須表現?だ。 そうそう、最近この辺も夏らしくなり、夜ビールなどを飲みたい気分にもなります。夜は寒くなく涼しいです。でもやはり朝は肌寒かったりします。
※ 後日談  
 日本へ帰ってきて、買い物に行くと、何だか物足りなく感じてしまうようになった。アメリカでは、どこに勤めていようとも、いい面も悪い面も含めて従業員はパーソナルな部分で接客している。しかし、日本では営業用の顔か無関心かで、その人の顔はとても見えにくい。ちょっと寂しい気分になったりする今日この頃である。
 カナダのバンクーバーで本屋に行った時のこと、私は「Reason For Hope」というタイトルの本を探していた。カウンターで尋ねたところ、私の発音がわかりにくかったらしく、悪いが書いてくれとにいちゃんから言われた。書いたら、著者名を言わないでも、ああその本ねとすぐにわかってくれた。
 そして、その後、「Rの音は難しいんだよね。僕がいい方法を教えるからちょっと待ってて。」と言われ、私がESLのクラスで何回となくビデオで見たことのあるRとLの時の口の形をそのへんにあった紙の裏に書き、発音指導をしてくれた。彼は過去に中国人に教えたことがあるらしい。一年もいて、未だにLとRの発音がうまくできない私も私だが、本屋で発音指導を受けたのは、これが初めてだった。まあ、忙しくなかったといえ、ちょっと感動した。にいちゃん、ありがとう!
<2011年の後記>
私の英語は元々大したことなかったのだけれど、
ほとんど使っていない現在は、完全に錆付きました・・・。

ベイエリア通信 #10  2000年7月27日

(この記事はアメリカ西海岸に滞在していた2000年に書いて友人に送っていたものです)
ここ数日の出来事
 暑中お見舞い申し上げます。日本は梅雨もあけ、みなさん暑い夏を過ごしていることと思います。枝豆、トウモロコシ、ビールの季節ですね。実は全てここでも手に入ります。トウモロコシは日本のものより色が薄く白っぽいけど、おいしいのがファーマーズマーケットで3本/$1で、ビールは日本より安いし、枝豆は冷凍でなんと「edamame」で売っています!だがしかし、枝豆に関しては、やはり新鮮な新潟の枝豆が食べたいです。枝豆はやはり「edamame」でなく「枝豆」ですよねえ。
  ところが、役者は揃っていても、あまりビールを飲みたい気分になりません。それはなぜか。カリフォルニアといえば青い空という図式が私の頭の中にありました。確かに午後は青い空が広がります。でもここサンフランシスコ界隈は、今寒いんです!今も長袖の温かい服を着ています。朝晩は長袖がないといられません(ただし昼間は陽射しが強く、暑くなります)。特にサンフランシスコが寒い。
 先週の日曜日に、サンフランシスコに無料のコンサートを聴きに行きました。野外コンサートだったので寒いだろうと思い、ちゃんと長袖を持っていったのですが、まだ甘かった。前にも失敗して、サンフランシスコでジャケットを買ってしまったことがあったので、今回こそはと思っていたにも関わらずです。暖かい長袖が必要でした。そこは湾に近い林みたいな公園で、特に寒かったのです。人の服装だけ見ていたら、今は晩秋か?と思うような光景です。でも、中にはタンクトップのお姉さんもいるのだ。そこがアメリカっぽいところで、本当にいろいろな格好をしている人がいます。セーター、ジャケットからタンクトップ、短パンまで、一体今の季節は何って感じ?みんな、季節に合わせるのではなく、自分の体感温度に合わせているのです。それにしても、タンクトップでいられるなんて、私には信じられんです。
 ベイエリアでは7月は大抵寒く、春や秋の方が暑いのが普通だと友人が言ってました。次の日(月曜日)は、友人の誘いでワインで有名なナパに行きました。ナパは暑かった!前の日があまりに寒かったので、七分袖のTシャツを着ていったら、またハズレでした。ちょっとでも湾から内陸に入ると、ずいぶん温度が変わります。乾燥した暑さなので、じりじり焼けるようで、熱風で呼吸困難になりました(ちょっとおおげさだけど)。
  今はバケーションシーズンなので、月曜日にも関わらず、観光地のナパにはたくさんの観光客がいました。月曜日でこんなに人がいるの?って感じ。アメリカ人は7月中旬くらいから8月下旬くらいまでの期間に、1~2週間くらい仕事をOFFにして出かけるパターンが多いような気がします。だから、この時期はどこの観光地でも混んでいるらしいです。もちろん、週末は言うに及ばずです。
  昨日(火曜日)は初めて1人で、長距離をドライブして友人の農場へ遊びに行きました。(と言っても、アメリカ人にとっては、決して長距離ではない距離です)。フリーウェイを時速約60マイル(約100km/h)で走っていると、ほとんど追い越されます(考えたら日本でもそうだった)。私はなにせ行ったことがない土地へ、友人の書いてくれた紙と地図だけを頼りに運転しているものですから、サインを見落とさないように必死で、途中で建物がまるで無くなると、本当にこの道でいいのだろうか?と内心かなり不安になりながら、普通は1時間で着く距離を1時間半くらいでどうにか無事たどり着きました。アメリカは都市部を除き、街と街の間が何もなかったりするのが普通のような気がします。一般道でも時速50マイル(約80キロ)くらいで走っていたので(街中は当然もっとスピードを落とします)、走った距離は新潟市から柏崎か、もう少し遠いくらいかな?
  昨日は友人宅に泊まり、今日(木曜日)は海までドライブして戻ってきました。海まで友人宅から約30分くらいでした。海辺を走っていると、何となく佐渡か日本海シーサイドライン(だったっけ?ひぇ~名前忘れちゃった)を走っているような気がしました。サインは英語だし、谷側の風景はまるで違うにもかかわらず、不思議な感じで、何かが似ているのです。浜辺におりても、海の感覚に親しみを感じました。けれども、もちろん佐渡は見えません。太平洋なんだよなあ、この先は日本かあ、海きれいだなあ、色は日本海と違うなあなどと思いつつ、水に少し足をつけてみたら、とっても冷たい海でした。
  友人から1袋もらってきた私の手土産の亀田の「味ごのみ」を浜でボリボリ食べたり、横になったり、人を眺めたりして、1時間弱ボーっとして、帰路につきました。とりあえず事故にも遭わず、無事アメリカ初ドライブから戻ってきました。今は肩こりです。
<アメリカで出会った料理-フレッシュサルサ->
トマト、紫タマネギ、ニンニク(量は好みで、無くてもいい)、コリアンダーの葉(パクチー、香菜、こちらではセランチュロとか言う。とても発音しにくいです。私のアワワ言葉です。残念なことに、新潟だと手に入りにくいんですよね。東京や大きな街なら大丈夫と思います。これが入らないと味はかなり違うものになると思いますが、なくてもおいしいと思います。パセリで代用するのもいいかもしれません)を荒いみじん切りにして、塩、レモンの果汁で味付けをする。好みでフレッシュチリ(トウガラシ。日本ではシシトウで代用でしょうか?)のみじん切りや、キュウリのみじん切り、ピーマンのみじん切りやペッパー(パプリカ)とか、好きなものを入れてもうまいハズです。水気が出るので、友人は水気をきってました。
トルティーヤチップスのディップに使ったり、卵料理のトッピングにしたり、ジャガイモにのっけたり、何でも使える。今日は、卵料理の上にこれをトッピングし、その上にサワークリームをのせて食べました。また、彼女はサルサとサワークリームをあらかじめミックスし、ベーグルにサンドしてダンナのスナックをつくっていました。ちなみに店に行くと、いろいろなサルサが売ってます。アボガドとか、マンゴーのとか。夏向きの一品です。Let’s try!

ベイエリア通信 #9  2000年7月18日

(この文章はアメリカに滞在していた2000年に向こうで書いて友人に送っていた通信です)
イランの12歳-ただしサンプル1名-
 サンフランシスコベイエリアは寒いです。昼間は暑い日も多いですが。ベイ(湾)のせいということで、朝晩は暖かい長袖が欠かせません。夏が寒いとは知らなかった。
 私が通っていたアダルトスクールのESLクラスは、今は夏休みで、先々週の木曜日にサマークォーターが終るので簡単なパーティがあった。それぞれの国の料理を持ち寄って、食べながら1,2時間歓談して、それではまたねになる。次のクォーターでまた会う人もいるし、この日を最後に会わない人もいる。家族なども一緒に来たりする。 
 今回はイランの人が多く、イラン文化圏オカズのコーナーができあがっていた。私はスパイスも大好きで、結構どこの国の料理でもおいしく食べてしまう。だが、もちろんハズレもある。イランの人が持ってきた白い液体があり、「それは何?」と聞いたら、「ヨーグルト」というのでそのつもりで口に入れたら、なんとしょっぱかった。もちろんちゃんとヨーグルトだった。
 アダルトスクールのパーティで食べた米料理で、今まで一番おいしかったのはブラジル人が作ってきた「チキンの炊き込みピラフ」だった。作り方を聞かなかったのが悔やまれる一品だった。同じくブラジル料理のコーンプティングもおいしかった。中華料理はやはり無難においしく、イランの米料理もおいしかった。アメリカ人の先生が持ってきたレモネードは甘かった。
 先回のパーティでイランから来た人の息子も来ていた。彼は12歳で、アメリカに来て7ヶ月か8ヶ月くらいで、当然母より英語が達者である。来る前には英語はあまり勉強してなかったということだが、私達より断然英語がうまい。彼の姉も前はここに来ていたが、今はカレッジへ行っている。
その彼との会話。
「どうしてアメリカに来たの?」
「僕達の教育のためだよ。」
「ほんとう?」
(他の理由があるのかないのかわからないが、彼はそう言った)
「大学へ行ってコンピューターの勉強をして、 Ph.D.(博士号)をとるんだ。」
「イランでも取れるでしょ?」
「とれるよ。だけどイランでとっても、それはイランでしか通用しないでしょ。
だけど、アメリカで取れば、世界中のどこに行っても使えるから。
例えば中国でもアメリカの資格だったら通用するよ。」
「・・・。」
(私は12歳でこんなことを考えているのかと、愕然としている)
 イランから来ている人は、イランはアメリカとは文化的に全く違うと言う。イランはイスラム教色が濃い国である。母も娘も頭に被り物をしている。同じモスリムでも、国によって宗教的な厳しさは違うらしい。けれども、被り物をしていない女性もいるので、個人差もかなりあるのだろう。
「イランとアメリカと何が一番違う?そうね、5つあげるとしたら何?」
「う~ん。まず、女の人が被り物をしてないでしょ。
アメリカはデモクラシーがあって、もっと自由がある。
イランの学校では男女が別れている。
小学校と大学では一緒だけど、あとは全て男子校、女子校になっている。
イランでは許可がないとインターネットが自由に使えない。
(これは後から訂正された。大学にネットワークでつながっていればインターネットは使える。
けれども、大学関係者とかでないと、やはりまだ自由に使える環境ではないらしい。)
えーっと、あとはね、アメリカではみんな犬とかネコを飼っているけど、
イランではほとんどみない。」
(確かにアメリカではペットを飼っている人が多い。イランではペットの習慣はあまりないらしい)
 その少年は目をキラキラさせながら、中国から来た人に中国のことを質問していた。中国にも興味があるらしく、歴史も知っていた。たまに、私達英語不達者外国人同士の会話の通訳もしてくれた。英語がへたな外国人同士の会話は、結構大変なのである。
 彼は12歳のとっても素直な少年で、つい日本人のことを考えた。12歳でこんな感じの子は、今の日本ではあまり見られない気もする。イランのような宗教的に戒律の厳しい国からアメリカなんかに来ると、本当にすべてが違うのだろうな。日本からアメリカに来るのとはわけが違うのだ。私は他にも1人息子の教育のためにアメリカに来たというイラン人に会っている。きっと、彼等はイランの金持ちなのだと思うけど、そういう理由もあるのだなと思った。
 アメリカに来る理由は人それぞれいろいろである。そんな人達が現在のアメリカを作ってきて、今も世界各地から移民が押し寄せている。それで、INSの電話はあきれるほど電話がつながらない、アメリカの中でもとってもとってもBUSYなラインになっているのである。
※注:なさけないことに、私はイランとイラクの区別がよくわかっていない。いつも間違えてしまう。実はここの通信も自信が無い。アラブ圏の人にすると、この2ヶ国は政治的、宗教的にもまったく違うので、間違うなんてとんでもない国らしいのだが、私にとってのイランとイラクは、日本で言えば島根と鳥取である(島根と鳥取の人ごめんなさい。けれどもあなたたちだって、東北・北陸・中部ははっきりわからんはずじゃっ)どっちがどっちなのかよくわかっていない。少年の出身国は、その2国の中で厳しくない方の国だ。
2002年からの追伸:
9・11以降、アメリカに住むアラブ人は、いろいろ大変な人も多いのだろう。ベイエリアはアメリカの中でも一番リベラルな地域なので、私の出合った彼らが無事過ごしているのを願うばかりだ。
<2011年後記>
これを書いた当時は、911以前なので、アメリカがイラクに侵攻してもいなかった。
また、中東が今のようになるなんて、誰にも想像できなかったことだと思う。
10年で世界はこんなにも変わるのだ。
またイランとイラクを鳥取と島根に置き換えるなんて、
現地の人たちに対して私の失礼にも程があったようです。
今、簡単に検索しただけでも、
民族そのものが違うのね。
本当に失礼な奴でした。ごめんなさい。
上記の彼はもう二十歳を過ぎている。
アメリカの大学に入学しているのだろうか?
もしくは他の国にいるのだろうか?
フェイスブックとかガンガン使いこなしている
若者になっているんだろうなあ。
元気かなあ。